あえて“定番ではない場所”を選ぶ、私たちが詩的な世界へ捧げるオマージュ
中国を「省」という大きな単位で眺めてみると、 どの省にも、地名を聞くだけで“遠い”“辺境だ”と 地元の人が感じる場所があります。 古くから、財貨も人も大小さまざまな中心地へと集まり、 その名前からして“遠い”と呼ばれる地域は、 時代を重ねるごとに訪れる人が減っていきました。 しかし、ある日を境に—— そうした土地は、まったく新しい呼ばれ方を手に入れます。 それが、「秘境」。 かつて“辺境”とされた場所が、 静けさと魅力を守り続けたからこそ生まれる、 新たな価値なのです。
まるで、十里八乡にひっそりと残された、 “設定が破綻しない”“物語から外れない”昔日の記憶のよう。 幾重にも続く山道は、かつて彼らが歩き、 自転車で往来した日々そのものです。 険しい山並みは、年配の人々のスマートフォンに 微信(WeChat)が普及することを妨げたかもしれません。 しかし—— 中国人の血の奥にゆっくりと沁み込んだ英知、 晴れの日は畑を耕し、雨の日は書を開き、 善を積み家を守るという生き方までは 決して遮ることはできませんでした。 静かで確かな暮らしの知恵が、 今も山里に息づいています。


東経119°10′・北緯28°14′、松陽県。
大楽之野(松陽店)。
ここから西へ30キロ——
店舗を出発してわずか1時間で、
私たちがいつの間にか見落としてきた“身近な未知”が姿を現します。
原野志|向かって西へ三十キロ vol.11
松陽で“心を洗い流す”ようなひと巡りの旅路—— まずは、私たちから一歩踏み出します。
宋代・松陽の状元、沈晦はこう記しました。 「惟此桃花源,四塞无他虞」—— こここそが桃源であり、他に憂うことなど何もない。 松陽は彼にとっての“郷愁”であり、 『中国国家地理』にとっての“旅の原点”でもあります。 しかし、松陽で代々育ってきた幼い子どもたちにとっては、 郷愁も旅心も、 竹笛を置き、朝霧と雲海の向こうへ歩き出して、 はじめて手に入れるものなのです。


【往事壹 紅い紙と、中国の“棟梁”たち】
72歳の呉長栄さんは、 田んぼの畦道でセメントを担ぎ終えたばかりの身体で、 私たちのために四文字を揮毫しに駆けつけてくれました。 労働の余韻が残る手の震え、 ぽたりと落ちる墨。 それでも筆先には、幼い頃から身につけた“学びの記憶”が確かに宿っています。 「子どもの頃、大学に合格したんだ。 でも家にお金がなくてね。 それで松陽で一生を過ごした。」 そう淡々と語る彼は、 「自分は書家ではない」と笑います。 けれど、二つの村の正月の対聯も、祠堂に掛ける楹聯も、 すべて彼の手によるもの。 久しぶりの筆に少し戸惑いながらも書き上げると、 呉さんはまた黙って労働へと戻っていきました。 その背中には、 “日々を生きること”と“学びを忘れないこと”が 静かに同居していました。
私たちは祠堂に残された筆跡を頼りに、 その人を探し当てました。 旅の“獲物”として額装するために——。 落款なんてなくていい。 むしろ、彼の手で書かれるからこそふさわしく、 額装という行為の意味をもう一度、静かに立て直してくれる。 赤い紙は、中国の日常の中で最も素朴で、 それでいて願いがぎゅっと詰まった“私的な生活”そのもの。 科挙に上り詰めることは叶わなかった、 無数の“名もなき中国の棟梁たち”が胸に抱いてきた未完の想い—— そのすべてが、この四文字に宿っています。 「積善余慶」。 善を積み、 その余韻が家族や子孫にまで続きますように—— そんな静かな祈りが、赤い紙にそっと息づいています。
【往事贰 村という、もっと小さな“落点”へと視線を下ろす。】
山深ければ山深いほど、その奥にふと開ける平地があります。 松陽には、浙西南で最大規模を誇る耕作平原——松古盆地が広がっています。 松陽という土地自体がすでに“小さな町”ですが、 私たちが向かったのは、その松陽の中でもさらに“小さな場所”。 今回の旅の目的は、ただひとつ。 本物の農耕の姿を、この目で確かめること。

楊家堂—松庄村—酉田村—西坑村—陳家舗……
松陽は、大小さまざまな“飛び地のような村”が連なってできています。
SNSで話題になる観光地とは少し違い、
私たちが選んだのは 海抜800メートルの山あいにある“小后畲村(ショウホウシャ村)”。
家々がびっしりと並ぶような景観ではなく、
人家はわずか、耕地はたっぷり。
肩の力がふっと抜ける、静かで凛とした山の暮らしが息づく場所です。

小后畲村
村の真ん中を通る細い道は、牛の道であり、鶏やアヒルの道でもあります。 そこを歩くだけで、一日分の“農耕ドキュメンタリー”を見たような気分になる。 家と家のあいだには、あちこちに種まきや収穫の痕跡が残り、 ゆるやかな村歩きの途中では、不思議な動物たちが次々と姿を見せます。 そのまま進んでいくと、村の入り口に立つ **樹齢140年の苦槠(くす)**の大木の下でひと息つくことができます。 道すがら、さまざまな植物が見つかり、 村は小さいながらも生命力にあふれ、 村人たちは驚くほど素朴で温かい。 頼まなくても「お茶を一杯どうぞ」と差し出してくれる—— そんな、やさしさが満ちた村です。
“外の世界”では 立春・雨水・驚蟄・春分・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒…… こうした二十四節気を、どこか風雅な季節表現として楽しみます。 けれど松陽の深い山里では、それらは“風雅”ではなく、 田んぼの一年を動かす確かな指針。 苗が田に落ちてから、秋の収穫に至るまで、 人々は順番に訪れる“小さな目標”をたしかめながら季節を追いかけます。 たとえば—— 坐蔸(ざとう)—挨帯(あいたい)—大腹(だいふく)—衔口(がんこう)—鳝魚黄(せんぎょこう)…… これらはすべて、 苗が根づき、 茎が伸び、 稲が孕み、 穂が出はじめ、 色づき、 やがて金色に熟していくまでの、 田んぼの成長を示す“山里の節気”。 風雅ではなく、 生きるために待ち望む季節の合図なのです。
あなたがここを訪れること—— たとえ農耕の一年の“どこか一瞬”をかすめるだけだったとしても、 きっと 「手で青い苗をそっと植えるときの、あの落ち着いた心」 を感じられるはずです。 花を育て、穀物を育てるという行為が、大地に教えてくれるのはただひとつ。 焦ってはいけない、欲張ってはいけない。 人が尽くせるのは一分、 残りの九分は天に委ねること。 人も稲も、地面へすっと頭を垂れたとき、 実が一粒ずつ多く、空虚が少なくなる。 そうして一年分の“粗茶淡飯”が備わっていく。 そして、そんな巡りの中で、 青年の黒髪も、いつしか忙しさとともに白く変わっていく——。 ここは、山頂にひっそりと隠れた“宝物のような小さな村”。 聞けば、昔の小さな足のまま一生を過ごしたおばあさんたちは、 隣の山を一つ越えた村の委員会にすら行かずに人生を終える人も多かったと言います。 交流が少ないほど、 田んぼに流れる時間はゆっくりと、 静かに、 そこに留まり続けるのです。
村には今も手つかずの建築風景が残り、 浙西南の“命理”と“地理”の脈がそのまま息づいています。 客家や畲族が移り住んだ歴史から、 ここには 「四水帰堂」に燕が舞う中庭の家屋 もあれば、 高屋建瓴の大屋根をもつ堂々とした住まい も並び立ちます。 もしあなたが気にかけているなら—— 中国の田園詩や農耕詩に描かれた“あの光景”は、 ここでそのままの姿で出会えます。
村の家々を囲む土塀は、 まるで稲穂が熟したときのように金色を帯び、 今でも 「耕読伝家久、詩書継世長」 といった門聯が静かに掲げられています。 牛をつなぐ犁(すき)、土をならす耙(まぐわ)、 細やかな作業をする耖(くわ)、 収穫を選り分ける筛(ふるい)—— そんな農具たちが、琴棋書画の文化と自然につながって並び立ち、 “耕すこと”と“学ぶこと”が、 “耕すこと”と“商い”が、 そして“耕すこと”と“旅をすること”が ひとつの線でつながっていたことを教えてくれます。 私たちが今したいのは、まさにその延長。 家を作り替える必要はありません。 ただ、広く続く耕地と、長くこの土地を守ってきた農家の人々の間に、 この土地の泥、この土地の木、この土地の梁を使って、 そっと“客を迎える場所”を生み出したい。 土と作法をそのまま受け継ぎながら、 ここにある暮らしのリズムを乱さずに。
【往事叁 清らかに澄みきった】
なぜ“小后畲村”からほど近い箬寮原始林を、 みんなが“勇闯(勇気を出して踏み入る)”と表現するのか、 正直いまだに理解できません。 たしかに、あまり人の手が入っていないように見える場所ですが、 入るのにそんな大げさな勇気や体力は必要ありません。 ここは、近年訪れた場所の中でも群を抜いて澄みきったところ。 山の麓からすでに、落ちた花びらが水の流れに寄り添って進み、 わずか30分ほど歩くだけで、 “清澈”という言葉の文字どおりの意味が目の前に現れます。 まっすぐで、にごりのない清らかさ—— それが、この原始林の本当の姿です。

これこそが、おそらく 「麗水」 という地名が持つ “文字どおりの意味”なのだと思います。 道すがら、珍しい植物がいくつも姿を見せます。 けれど—— あなた自身のためにも、そして未来の子どもたちのためにも、 どうか何ひとつ持ち帰らないでください。 この美しさは、“打卡(映え目的の通過)”では守れません。 立ち止まり、耳を澄ませ、空気の匂いや水の気配に身をゆだねる—— ここは、浸るように味わう場所です。

【往事肆 善から信へ――その言葉の根にあるもの】
回り道には、松陽県城にある黄家大院へ立ち寄ってみてください。 かつて茶葉と煙草の商いで財を成した一族で、 松陽の河港から積み出した品々は、瓯江(おうこう)を下って南海、 さらにはインド洋へと渡り、東南アジアやヨーロッパにまで届けられていました。 乱世の時代、黄家の人々は代々にわたり倉を開き、 飢えに苦しむ人々を助け、 いまも大院の軒には 「澤周仁粟」 の扁額が静かに掛かっています。 松陽では、富は大地から誠実に育ち、 貧富に関わらず、 人々は 耕し、学び、商う心を同じように大切に守り続けてきました。 その“玲瓏たる心”こそが、 この山里に脈々と受け継がれてきた松陽の気質なのです。
黄家は、晚清の乱世にあって“太平の郷紳”として立ち、
散り散りになってしまうはずだった風雅をもう一度丁寧に編み直し、
人々が集い合える場として守り抜いてきました。
抗日戦争期には臨時の駐在地となり、
日中戦争下では指揮所として使われ、
国民党時代には師長の長寿祝いを催し、
解放後は人民公社として地域を支えた——。
華やかで精緻な木彫り、
そして西洋化の影響を受けた別院は、
晚清から近代へと移り変わる激動の時間の中で、
耕し、学び、信用を重んじ、
山水と世情のあいだを生きた“人”の物語、
すなわち松陽の往事を静かに語り継いでいます。
反高潮であることが、いつも正解とは限りません。
私たちは消費社会の只中を生きていて、その流れから完全に逃れることはできません。
けれど——
もし「丁寧に読み解く習慣」と「反高潮の旅を選ぶ精神」を失ってしまえば、
この道の先に得られるものは、きっと何もなくなるでしょう。
かつて誰にも顧みられなかった土地が、
いま、世界に向けて “詩のような反撃” を静かに放っています。
そして私たちは、五百年の時を背負う松陽の村々で、
心が遠ければこそ、地もまた遠きを選ぶ——
そんな気持ちで、もう一度“反高潮の定址”を選びました。
大きな代償を払わずとも、
静かで深い感動を与えてくれる——
この麗水・松陽に、敬意をこめて。
あなたにも、いつか最良の日に、この地へ辿り着けますように。
おすすめルート
1 古き良き心を洗い清め、 大切な時間をそっと抱きしめる。
キーワード:古い街並みをそぞろ歩き/木彫りの古民家宅
ルート:大楽之野・松陽店 → 黄家大院 → 松陽老街 → 大楽之野・松陽店
(黄家大院は大楽之野から約36km、自家用車で約54分。
入場料は30元。精緻な古木彫が随所に残っているので、ぜひ見上げながら鑑賞してください。
観覧後は車で約15分ほど走ると松陽老街へ。
古い手仕事の工房や手作りの店が並び、
名物の「塩煨鶏(塩煮込み鶏)」や「佰仙麺館」の麺料理もおすすめです。
その後、車で約33km(約45分)戻れば再び大楽之野へ到着します。)
2 山へ逃げ込み、ただ静かに木々と向き合う。
キーワード:原始林/ハイキング/沢歩き
ルート:大楽之野・松陽店 → 箬寮原始林 → 燕田村 → 大楽之野・松陽店
(大楽之野から約25km、自家用車で約41分ほどで箬寮原始林へ到着。
入場料は58元。ハイキングや沢歩き、植物観察が楽しめ、
犬連れでの散策にもぴったりです。
体力に余裕があれば、大楽へ戻る途中にある燕田村へ立ち寄り、
呉長栄先生と出会えれば、力強い毛筆の作品を書いていただけるかもしれません。
その後は残り3.3km、約15分ほどで大楽之野へ帰着します。)
3 安県令の旧邸をそっと巡り歩く。
キーワード:古村落/江南の秘境
ルート:大楽之野・松陽店 → 松庄村 → 楊家堂村 → 帰路
(このルートは、江南の秘境を縫うように進み、
竹林と山々が幾度も曲折しながら続く美しい道を楽しめます。
松庄村は大楽之野から約47km、自家用車で約1時間21分。
松庄から楊家堂村までは約12kmで、車で約38分。
古木の下で飲む一杯の新茶は格別で、
「老樹厨坊」の素朴で滋味深い料理もおすすめです。
※時間に余裕があれば、さらに 陳家舗村 まで足を伸ばし、
一度に三つの古村落をめぐる“贅沢な一日”にすることもできます。)




